昭和45年10月20日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばな らぬ。」

 親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで立行く天地、あまつちの如しと教祖さまは教えておられます。これ程、私は万物の霊長としての素晴らしい生き方をハッキリと教えておられる事はないと思う。これは人間でなからなければ、このようなことはできません。あいよかけよと。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで、ね、しかも天地のごとくと、人間以外の者では分かりません。
 ところが、私はそういう自覚をもって、生活をしておる人間が世界にどれだけ有るだろうか。どれだけあるか分からん、おるか分からない程しのたくさんの人間が、やはり人間なのですけれども、そういう素晴らしい生き方をしている者が、どれ程果たしてあるだろうかと。ひとつも、人間万物の霊長としての値打ちのある生き方、ね、例えば自分が栄えさえすばよい、自分の国が栄えさえすればよいと。
 自分の周囲周辺の事だけに思いをして、あいよかけよで立行く道を願わずして、一生を終わっていくいわば人間がどの位あるかわかりませんなかに。私共は、教祖生神金光大神の教えにより、又は、お取次の働きによってです、おかげを頂き、同時にそういう道理を見て、道理に合う信心をさせて頂いておるという事だけでも大変有り難い事である。ね、だから、お道の信心は万物の霊長である人間をいよいよ万物の霊長たらしめる教えだという事が言えます。又、その自覚を作らして下さる。
 万物の霊長としての本当の自覚を作らせて、教えてくださる。ですから、私共がその自覚に立っての生活でなからなければならんという事になりますね。果たして、金光さまの御信心頂いておる私共が、そういうような自覚に立って、信心を頂いておるであろうか。考えなければいけません。昔でしたけれど、味苦魅楽という御理解を頂いた事があります。味苦と言うのは、苦を味わうと書いてある、味苦。ね、
 そして楽に魅せられるなと、魅楽とは。魅力の魅ですね。楽に魅せられず、ね、味苦というのは、苦労の味わいというのである。これなどが分かって、これなどが実行していけれるものもやはり、これは人間だけだと思う。ところが果たして、私共は、どういう事かと言うと、味苦魅楽という事にならずに、苦労の味わいを味わおうなどという人が、段々に少なくなって、そして、楽な方にばかり魅せられておるというのがほとんどではないだろうかと、思いますねぇ。
 私は、人間のやはり、霊長としての値打ちというのは、値打ちを作っていく事だと、こう申しましたが、ね、いわゆる、苦労の味わいを分からして頂けれるのは人間だけだと思うし、又その苦労の味わいという事がです、私共人間の幸せと言うか、又神さまが願っておって下さる信心しておかげを受けてくれよというおかげは、苦を味あわせて頂くところに、いや、そこのところの味わいが分かった者でなからなければ、信心しておかげを受けるという事にはなってこないと思う。
 只、楽にだけ魅せられて、一生をです、只、お金が欲しい、物が欲しい、と、楽になりたい楽になりたいと一生その楽になりたいで終わっていく人は、これはもう、人間としての実を言うたら値打ちというものを発揮せずに、とうとう終わってしまうという事になるのじゃないでしょうか。万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。ね、例えば、植物なら植物の成長を見ておりましても、ね、やはり植物の成長の中にも、只、安易安楽という事だけではない。
 例えば、寒中なら寒中にじっと芽を吹く春の芽ぶきを待たして頂いてある時期があってそして、そして春に芽が出、葉が出、言わば花が咲いたり実が實ったりするというのですからねぇ。たとえばその寒中と言うかね。私は、先日、今年はもう非常に異常なまでにあのカエルが沢山ここの境内でもおりましたね。日曜たんびんに、丸少の方たちが一人で100匹づつくらいはすぐとりちゅうぐらいにたくさんおった。そんなたくさんおったカエルがこの頃全く見えなくなってしまった。
 やっぱりこう寒くなったから。あのひきカエルなんか、あのヒキガエルと言うか、あの青いですね、あらどげなふうにしよるじゃろうかと私は。普通の黒いあのカエルはみんな土の中に入っていくわけですけどね。だから土の中でいわゆる冬眠をするわけですけれど、あれはやっぱどげなふうだろうかと思ったら、そりゃやっぱりあのカエルでも冬眠をいたしますよと。冬眠と言うよりもう仮死状態になってしまうんだと。いわゆる半年間なら半年間と言う間をいわゆる仮死、もう死んだ状態になってしまう。そしてまた暖かくなったら、その出てくるとこういうのですね。
 私たちが一年間も、例えば、半年間も仮死状態と。いわゆる活動しない状態ではとてもおれませんけれどもね。そこにあの天地の親神さまが人間の上にとりわけての、言うならば、働きというものをです、送ってくださるという事は、確かに他の植物とか動物とかいうものには見られない特別の恩恵を人間のうえには、送っておって下さる。なる程、万物の霊長と人間が言うだけにです、様々な例えば、自由というやうなものも私共に送って下さる、与えて下さる、恵んで下さる訳です。
 ですから、その恵みというものを私共が悟らしてもらう。そこから、その天地の恩恵に対して感謝の生活をする。ね、これはもう、人間万物の霊長としての値打ちをうんぬんするならば、当然の事である。特別の恩恵を頂いておる。その特別の恩恵に対して私共が、神恩、言わば報謝の生活。人間でなからなければ分からない。又、人間でなからなければ頂けない結構な言わば、恩恵に浴しておるのである。
  それに例えば、答えて御礼の生活をさせてもらう。万物を見て道理に合う信心。確かに私は、道理に合う信心だと思います。ね、私はそこのところがです、ね。そこのところが私は分からせて頂いて、言わばそこのところがひとつの基調となって、ね、そこから、親の事は子が頼み、子の事は親が頼みというやうな関わり合いを元にして願っていき、又はお礼を申し上げていくという生活が金光さまの御信心だと思う。
 ですから、そういう生き方を人間の全てに、その事を、言わば教え伝えていかなければならん。そして、本当に人間らしい生き方、万物の霊長としての生き方、そして、万物の霊長としての値打ちを作っていくという事に楽しみを感じさせて頂くという生活、それが私は人間の本当の生活の生き方だと私は思います。そういう生き方を教祖さまは教えておって下さる。私共信心させて頂いておる者は、それをそういうふうに聞かせて頂いて、本当にそうどころではないと感じます。
ですから、世界総人類の上に、なる程そうだという道理を分からせれるひとつ信心をさせて頂き、又は、それを広めていかなければいかんと、いう風に思います。只、人間は万物の霊長だと、例えば威張っておれるという事だけではです、それは例えば、一生を、ね、楽に魅せられて生活をするだけの事。天地の恩恵、それに浴しておる事を分からせてもらい、それに応える生活をさせて頂く為には。
 私共はいわゆる信心を本当に分からせてもらわねばならん。そこには自ずと、言うならば修行の有り難さ、いわゆる苦労の味わい、ね、その苦労の味わいを味あわせて頂きながらの生活。そういう例えば、目指しと言うか、生活というか、そういう生き方の氏子の上に私は、その氏子が、ね、言わば、クローズアツプされていかないはずがないと思う。天地の働きと言うか、天地の親神さまの働きというものは。
 そういう事が分からせて頂いて、そういう願いの元にです、私共が信心させて頂く者の上にね、特別の例えば、光が送られないはずがない。そこに信心させて頂く者の喜びとか幸せ、又、そういう人間氏子がですとりわけての氏子信者と、例えば教祖が呼んでおられますようにですね。クローズアップされていくところの言わば特別のと言うかね、だけに許された幸せと言うものがそこにあると、こう思う。
 ところが、私が只今申しましたような事をですね、基調としてない。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬとか、又、霊長としての値打ちと言うか、を作っていく事が信心だといったような事を分からず、知らずにただ拝んでおりますというだけの信心では、これは本当の信心じゃない。それではね、大した言わばおかげと言うか、特別のいわゆる神さまからとりわけてのクローズアップされる程しのおかげになってこない。
 神さまにとりわけの恩恵を受けておる人達は、皆んな、そういういわいる考え方、ね、最近今年のここのスローガンであります、世のお役に立たして下さい、といったような願いの元に信心が続けられるという、その世のお役に立ちたいという、その一念とか願いというのはです、私が今日私どもが申しました、私が申しましたような事を分からしてもらい、それを基調としたところからです、世のお役に立ちたい、というやうな念が生まれてくるのです。
 その念が、段々強うなってくる。それを最近は、天赦願と言うております。神さまに許されての願い、ね、しかもそれは、お役に立ちたいの一念の願いである。そこからもう、限りない願いの世界。ね、いよいよ大きくクローズアツプされていくところのもといというやうなものが、そこから感じられます。道理に合う信心をせねばならんと、せねばならんとこう、教えておられます。にもかかわらず、私共がせねばならんというのではなくてですね、それをそうさせて頂こうと願う。
 そこに初めて、この願いの信心が生きてくるように思います。それを例えば、お道の信心をさせて頂いておりましてもです、ね、そういう神さまとの言うなら関わり合いと言うか、とりわけ人間氏子の上に特別の御恩恵を頂いておるという事も知らず、ね、只、我情我欲いっぱいでの生活、只、楽な事に魅せられながら楽をおうて、そして、とうとう楽にはならずに終わっていくというやうな事では。
 本当に神さまを折角の人間万物の霊長としての値打ちを持たせながら、それを発揮できないで終わっていく氏子の上にどのやうな悲しい思いをさせなさるか分からない事になる。私共は、ここのところをひとつ本気で分からせて頂いての願いに立たせてもらう。ね、最近言われております一心 眞を捧げての願い、ね、もう人間が万物の霊長としての値打ちを自覚して、ね、その値打ちをいよいよ発揮していくその情念。
 思いというものが、いよいよ強うなっていく者の姿だと、こう思います。限りない私共が、その高度の信心と言うか、という事は、私共自身がやはり高度にならなければならん。理念の上に立った高度の信心では駄目です。そこからどうでしょう。そういう子供が親の事を願うという事になったら、親の事は子が願い、子の事は親が願いそういうところから、願い合いの信心が出来るやうになったら、いよいよ神さまの願いとされる神願が成就してくる事になるでしょう。
 いよいよ今日は、教祖大祭がここのお広前で奉仕をされる訳でございますけれども、ね、私共は今までかって、感じた事のない大祭の内容になると思います。今まで信心の稽古をさせて頂いてきたその信心を基調として、ね、言うなら、いよいよ神願成就の事の為の願いをです、私共が持たして頂いて、言わば晴れての願いを正面に立ててのご大祭。ね、何とはなしにですね、心が躍るやうな気が致します。ね、神さまの願いに応えて立たして頂く事の為にも、ね。
 今日例えば、御大祭がいよいよ合楽全体打って一丸となって、只、今まで頂いて参りました信心を基調としての、いわゆる大願成就の祈りに、御大祭にならなければならないと思います。そういう事が願える、これは、例えば味苦魅楽という楽に魅せられてというのでなくてです、いよいよ万物の霊長としての値打ちをいよいよ発揮させて頂く事の為に、ね、より世のお役に立ちたいの一念が、そういう願いになっていくのでございますから、本当に有り難い事になってくるという、いわば自覚をね。
 各各が持たなければならんと思うのです。今まで、私共が頂いて参りましたような大祭であってはならない。であるならば、私共の信心が進展していない事になる。そういうひとつ生き生きとした願いの御大祭が奉仕させて頂けれるおかげを頂きたいと願っております。このようにして、人間万物の霊長としての値打ちを発揮していく事の為に、いよいよ願っていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。